第35回 夏期仏教講座
「幕末維新期世界と沼津」
講師 四方一瀰先生
「幕末維新期 世界と沼津」と随分大きなテーマですが、日本の国はご存知のように江戸時代の長い間、幕府の鎖国政策により世界の国々に対して「井の中の蛙」のような国際感覚を失った関係を余儀なくされてきました。わずかにオランダや中国を通して世界との交流が保たれれていたとはいえ、その内容は医学や植物学などきわめて限られたものであり、当時世界が政治的にも経済的にもどのような緊張状態にあるのか一般国民はほとんど識ることができない状況にありました。
しかし大砲を装備した鉄鋼製の蒸気船を率いてペリーが浦賀に来航し、開港を要求した前後から、幕府はもとより、士族・一般民衆も世界の情勢に目を閉ざしていることはできず、日本の社会はにわかにあわただしくなってきました。このことは日本の政治や経済の中枢に必ずしも置かれていなかった地方の一宿場町沼津も例外ではありませんでした。
ところでこの時期の沼津と外国とのかかわりを知る史料はいくらかは残っております。明治史料館や御用邸の歴史民俗資料館は市内の旧村や個人のお宅に所蔵されていた史料を丹念に調査して『沼津市明治史料館史料目録』や『沼津市歴史民俗資料館資料集』を刊行しておりますがこれは沼津の歴史を実証的に知るための貴重な財産です。内浦小海の増田さんの所蔵目録を看てみますと「仏蘭斯人伝来の薬調合に関する書状」・「異船下田入津に付根米に関する書状」など内浦の漁民と外国とのかかわりをうかがうことができ、また松長の増山さんのお宅の回状触書からは駿河湾沿岸の庶民と外国船との対応の心得が細かく記されており開港前後の幕府や沼津の庶民が世界とどうかかわったのかを垣間見ることができます。とくに小海の増田家に旧蔵されていた史料のなかにロシア語の単語をメモした文書が含まれているのは大変興味があり、かなり身近に交流していたことを知ることができます。
一方庶民の日常的な外国との接触にとどまらず、その後沼津とかかわることとなった人の中には日本の将来を計り積極的に海外事業を学ぼうとしていた人たちいました。徳川幕府が崩壊して沼津に移住した杉田玄端や渡部一郎です。
杉田は『解体新書』で名高い玄白の子立卿卿の養子となって杉田本家を嗣いた人で、幕府の外国奉行支配翻訳御用頭取から沼津兵学校附属の医学所頭取となりました。また幕府開成所教授職並出役を務めた渡部一郎(温)は沼津兵学校一等教授並として英語を教えました。
杉田はペリー来航前の嘉永四年に江戸で『地学正宗(ちがくしょうそう)』を、渡部は慶応二年同じく江戸で『地学初歩』を出版しています。『地学正宗』の原書はオランダのプリンセンが子どもの教育のために簡訳した世界の地誌ですが、地誌を緯度経度などにより地球を知る幾何学地地誌、海・山・川など自然の地勢などから知る地球の窮理学地誌、また世界各国の情勢をその位置・境界・人種・政治・産業等から知る邦制学地誌の三様に分け、以下スペイン・フランス・イギリス・ロシアなどヨーロッパ諸国の位置・広さ・気候・地勢・人種・政治・産物などを記しております。日本にも寺子屋のお手本には「東海道往来」など「地理」的教材はありましたが「…箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や、やどは沼津の真菰草、さらでも原の露はらふ…」など山や川、名所・史跡を旅行案内記風に記したもので、『地学正宗』はそれとは全く質を異にした江戸時代の世界地理学として世界の「大勢を知る」新鮮な好個の地理書として幕末維新期の有識者に大きな影響を与えた。「幕末日本人には最高級の地理書」だったといわれております。
また渡部の『地学初歩』は美濃半截判三十五枚に印刷した英文の地理書で、原書はアメリカのコルネールが小学生向きにニューヨークで出版しました。日本は蒙古人種に属し偶像を崇拝し、鉄・銅・鋼を産し漆工の技に優れている。江戸は人口の密集した日本の首都であるがミヤコ(京都)は学問や産業の府で天子が住んでいると記している。イギリスの産業について記しているほかフランスについては西欧の重要な国であり、絹・ウール・フランティの産業が盛んで、主都パリはエレガントなロンドンに次ぐヨーロッパの大都市と述べるなどイギリスや西欧の国勢・主要都市などを紹介しています。
一方、沼津の一般の民衆は世界のなかの日本への問題意識はもっていなかったのだろうか。私はこの問題に沼津の一般民衆がどう関わっていたのか、関心を抱いておりましたが、それを知る方法が分からずにおりましたがフト明治史料館や歴史民俗史料館が「史料目録」に気づきました。たしかに岡宮の持田さんのお宅には清(しん)の魏源(ぎげん)刊行の『海国図志』が、西澤田の芹沢さんのお宅に同じく清の徐継雷(じょけいよ)の『瀛環志略』(えいかんしりゃく)の名が記されていました。
また別の本から沼津藩士族でかつて本光寺に墓地があった東京工大創設者手島精一のお宅にも『海国図志」や『瀛環志略』が所蔵されていたことが分かりました。
岡宮の持田家は国学者本居宣長の門人で修善寺熊坂の竹村茂雄の門に入り国学を学んだ豪農で、所蔵の『海国図志』は一八四三年五十巻本として刊行され、一八五二年には百巻本に増補出版されました。当初禁制の事項があると市場に出ることはなかったが川路聖謨(としあきら)が「有用之書」として老中阿部正弘や将軍家定の許可を得て一刻も早くと翻訳出版しました。
西澤田の芹沢家も豪農で、製油業や材木商を営んでいました。当時イギリスは清とのアヘン貿易により莫大な利益をあげていたが、一方清は銀の流出・アヘンの害毒・農村の疲弊が進み海岸の防備を厳しくし悪徳商人の跋扈・官僚の腐敗に苦しんでいました。このような状況を『海国図志』は記して警鐘を鳴らしましたが、一八四八年(嘉永元年)に刊行された『瀛環志略』もアヘン貿易によるイギリスの清侵攻を国民に訴えてこの本も文久元年(一八六一)には日本でも出版されました。
徳島藩では訓点を付し翻刻して藩校で教科書とされ、沼津兵学校でも資業生の学科課程に組み込まれる(「掟書」書史講論)など士族層や芹沢家のように豪農・商人層にも読まれました。
徐継畬ほアメリカや西欧人からの見聞や著作を参考にして一片の土地をベンガルに買い、そこを拠点に弱小なインド諸部族を蚕食し膨大なアヘンを清に売込み巨額な利益を手にするイギリスの対アジア貿易の実態を述べ西欧列強のアジア進出の恐怖を訴えました。川路が本書の公刊を図ったのも当時の世界の地理的動向のなかで日本の採るべき態度を広く日本人に認識させる意図のあったことを読み取ることができます。
またアメリカの大統領制や議会制度を紹介していますが家柄や身分による日本の世襲的封建的な政治体制に対して民主的な投票による大統領・知事の選挙制度を示しております。
吉田松陰や橋本左内ら日本の将来を憂いた志士たちが進んで本書を読んでいます。『海国図志』は「防備によって敵を攻め、防備によって和を結び、夷をもつて夷を制する」と攻めるも和するもまず敵を知るために世界地誌を学び日本の転機を謀ろうとする国民の高まった意識は単にエリート階層の士族や政治家にとどまるものではなく、沼津の文人・豪農・商人層の中にもこれら世界地誌への関心は高まりつつありました。このように日本の近代化は日本人のなかに形成されてきた国民の総意によって成し遂げられたものであることを窺うことができるのです。
(第35回夏期仏教講座講演)
2013年9月18日水曜日
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